最近のコメント

  • Re:Baby Cham ft Bounty Killer & Mykal Rose - Stronger
  • (SEXY-P)
    2010/12/10
  • Re:Voice MailとCobra続報2
  • (jj)
    2010/05/27

    カテゴリ一覧

    プロフィール

    Ruff-Cut Crew

    コンテンツ

    過去ログ

    INFORMATION

    全記事をカテゴリ別に表示しました。またバックナンバーのリリックスやインタビュー、リポートなどもログ検索から簡単に探すことができるようになりました。(7/2010)

    ※画像をクリックすると拡大して見れます。
    (Ruff-Cut)

    記事一覧

    SANCHEZがロンドンで毒殺!?

    ファイル 191-1.jpg

    レゲエシンガーのサンチェス、本名アンソニー・ジャクソンが、
    最近イギリスのロンドンでのショーに出演した後に毒殺されたと報道された。

    新聞記者であり、サンチェスのマーケティングコンサルタントであるヴォニー・マガウアン・アースコットの話によると、
    そのシンガー(サンチェス)にとって、それは臨死体験だったという。

    「私たちは、先週の日曜日にハマー・スミス・アポロ・シアターでのショーを終え、
    ちょうどロンドンから戻ってきたところよ。
    サンチェスはフレディ.マグレガーとザ・ミレニアムバンドとクロニックと一緒にショーをしたの。
    彼らは約5000人の人達の前でプレイをし、それはサンチェスにとって最高のパフォーマンスだったわ。」
    とマガウアン・アスコットは言った。

    彼女は続けた。

    「ショーが終わった後、私たちはバックステージにいたの。
    アーティスト達にはそれぞれ個室のドレッシングルームが用意されていて、簡単な食事と飲み物が用意されたわ。
    だけど、サンチェスは普段、用意された飲食物は一切口にしない人なの。
    ところが、誰かが彼に飲み物を渡したらしいんだけど、どうやらカップがすり変えられて、彼は毒殺されたらしい。」

    マガウアン・アスコットは説明した。

    「彼がホテルに戻った後、何人かのファン達がホテルに来ていたんだけど、彼はとても疲れているって不満を言ってて‥
    いつもの彼らしくなかった。
    30分くらいファンの子達にサインをしてあげてたわ。
    それから約1時間後に、彼が私の部屋に電話をかけてきて、すごく気分が悪いって言ったの。
    私が急いで彼の元へ駆けつけた時には、わずかな脈拍しかなかった。彼はほとんど死んでいる状態だったの。」

    ●心臓発作のような症状

    「彼はおよそ15時間の集中治療を行なった。彼の症状はほとんど心臓発作だった。
    そして、彼が何か飲食物を口に入れたのが原因だと分かったの。」

    奇跡的な回復をし、現在ジャマイカで休養しているサンチェスは、つらかった出来事から神の恩恵を思い起こしていると語る。

    サンチェスは電話での短いインタビューの中で
    「もう一度生き返らせてくれた神にとても感謝している。
    同じ仕事仲間達に伝えたいのは、自分に近づいてくる人間には気をつけろってことだ。
    あれは本当に致命的な出来事だった」
    と答えた。

    マガウアン・アスコットは続けた。

    「それは強盗未遂に見られる事件だった。
    なぜなら何人かの関係者達は、彼がアフターパーティに出席することを望んでいたからよ。
    でも彼はアフターパーティーには行きたがらなかった。彼らはホテルに待機していたの。

    あれは強盗を起こすための企みだったとしか考えられないわ。
    だって、私たちが病院から戻ってきた時、ホテルの部屋がくまなく荒らされていたからよ。
    私たちは何とか彼の貴重品を守ることは出来た。
    それに彼はほんのわすかな現金はあったけど、彼自身は持っていなかったの。」

    「このことは海外に出てショーを行なうすべてのアーティスト達に警告として伝えなければいけないことだわ。
    誰がバックステージで一緒なのか?そして誰が滞在先のホテルを知っているか?などの注意が必要ね。」

    今週土曜に、キングスハウスにあるシンフォニーでのパフォームを控えているサンチェスは、
    そこでも十分な警戒をするために「完全フライトで行くつもり」と語っている。

    (サンチェスが生きていてよかった~・・)

    情報:Jamaica Star
    (Lady-K)



    偉大なるROBERT NESTA MARLEYへの敬意

    ファイル 193-1.jpg

    毎年2月6日は、偉大なるRobert Nesta Marley(ロバートネスタマーリー)を追悼して、世界中で祝賀と賛辞を祝う。
    1945年のこの日に生まれ、36才で脅威的なガンに屈し、1981年5月11日、あまりに早すぎる命を奪われた。

    ボブマーリーはジャマイカでメリット勲位を含むいくつかの賞賛を誉め称えられ、
    世界中のファンによってキング オブ レゲエミュージックの称号を得た。

    若かったボブマーリーがとてつもない芸術的成功を得るまでには、
    セント・アンズのナイン・マイルズとトレンチタウンというインナーシティでの非常に卑しい生い立ちが始まりであり
    それが彼のパワフルな力となっていた。

    世界中の人達にもたらすボブマーリーの説得力のある革命的な考え方は長い間生き続けている。

    1979年、ヨーロッパでのインタビューにおいて、
    マーリーは核兵器や戦争への反対、制度をくつがえすための嘘の事実、
    また核兵器を作り出した者達の計画や改悪があることなどを強く語った。

    「科学者達は私が言っていることにはまったく耳を傾けず、いまだに兵器の研究ばかりしている。
    しかし、彼らが永久に正しいものを作り出さず、人々を殺すための兵器を作り続けるならば、
    彼らもその兵器と一緒に破滅することになるだろう 」
    とMARLEYは意見を述べた。

    彼は
    「貧困者達は決して忘れられることはない、そして高潔な人間の予言は決して滅びないのだ」と続けて語った。

    ボブマーリーは、ラスタファリの精神的な哲学を世界中の人達に受け入れてもらうため、
    主に彼の音楽を通じてその教えをもたらした。

    「私は何の宗教にも属していない。
    ラスタとはライフなのだ - 私は私である…私はラスタマンだ。」

    ボブは、かつてインタビュアーに宣言したことがあった。

    平和と愛と真実のメッセージは、ボブの心臓の鼓動から来るものであり、
    彼にとってこれらのメッセージは世界に開かれた成功への扉でもあった、と‥

    そして1964年、ジャマイカの音楽シーンに最初の大きな衝撃を与えたのは、
    ボブマーリー、ピータートッシュとバニーリヴィングストンからなるウェイラーズのメンバーだった。

    ファイル 193-2.jpg
    ※写真は1967年頃のウェイラーズ三人衆
    (写真:REGGAE BLOODLINES/株式会社ブルース・インターアクションズ)

    ウェイラーズの革命的な音により、今までのジャマイカンミュージックの歴史を燃やした最初のシングルは
    "Simmer Down" "Soul Rebel" そして "400 Years"になる。

    同様に70年初期に出したデビューアルバム"Burnin" と "Catch A Fire"は
    ウェイラーズの注目を集めることとなった。

    しばらくボブマーリーはリー"スクラッチ"ペリーと一緒に活動をした。

    後の1969年頃、海外の任務を終えジャマイカに帰国した友人のサッカー選手のスター、アラン"スキリー"コールと再会。
    グループを再編成した。

    「10代の前半から我々はサッカーの練習で会っていたから、心からのフレンドシップをとれた。
    そして緊密な繋がりを持っていったんだ。この関係だけは、本当のリレーションシップといえるだろう」

    我々は、兄弟よりも近かった‥
    我々は、一つの血で繋がっていたんだ。

    スキリーが説明した。
    「彼らはタフゴング レコードをつくり、そこからリリースをし続けたんだ。」

    「それからアイランドレコードがやって来た」

    スキリーにとって、ステージ裏でのボブへの精力的なサポートは大きな喜びであった。
    計り知れないほど貴重なアドバイスの提供者だったスキリーはボブに高く評価されていた。

    それは、お互いに専念したサッカーに対する愛情の共有性だったのかもしれない。

    スキリーとボブが息がぴったり合っていたという行動指針なのか、または二人とも似たような価値観を持っていたからかもしれない。
    どっちにしても、ボブの最後の日、彼らの友情関係がもっと強くなったことだけは間違いなかった。

    ファイル 193-3.jpg
    ※写真はアラン"スキリー"コール(前列中央)率いるサッカーチーム、ザ・ハウス・オブ・ドレッド
    (写真:REGGAE BLOODLINES/株式会社ブルース・インターアクションズ)

    肉体的に、そして情緒の心の支えとなり、ボブから離れなかったスキリーは、
    終局の日々の中で、黒色腫(しゅ)と言う命を奪う恐ろしい皮膚癌と戦うボブについて強く語った。

    それは、ボブがサッカーをしていた少年時代の1970年に始まった。

    ある日、彼は2週間の休養が必要となるほど、ひどい反則のタックルを受けた。

    1977年、再び病気が再発し、ボブの怪我は、最も悪性の皮膚がんの1つ、致命的な黒色腫(しゅ) だと診断された。

    スキリーは、ボブが足の爪を剥がさなければいけなかったこと、厳しいダイエットが必要だったことなど、彼の治療と副作用について語った。

    ボブの病気による、ステージでの衝撃的な徴候が起きた時のことを、スキリーは続けて話した。

    ファイル 193-5.jpg「ボブがセントラルパークで倒れたとき、彼は私の手の中にいた...
    彼が回復することを望み、あらゆる時でも彼とずっと一緒にいた。」

    当時、ボブが受けていた化学療法は、結果的に有益なことより有害なことの方が多いように思えた。
    そのため、ボブはもっと新しくてより自然療法を求め、ドイツに旅立ったのだと説明した。

    兄弟とドイツに旅立った時、スキリーだけでなくボブの周りの人達すべてが愕然としたことが起きた。
    それはボブの髪の毛が抜け落ちた時だった‥とスキルは語った。

    逃れられないことに立ち向かうということは、厳しい敗北のようだった。
    そして、ボブとウェイラーズによって作られた多数の遺作は慰めを残した。

    スキリーは兄弟を失った。
    1981年の運命づけられた日・・・
    セデラブッカー、ボブの母親、息子とリタマーリー、ボブのベイビーマザー達と彼の子供達は、心の友と父親を失ってしまった。

    しかし、ボブの誕生日が2月6日であるにせよ「ナチュラル・ミスティック」の歌のように、
    ボブのメッセージにある"否定できない真実"は、我々の世界に絶えず伝えられている。

    それは、平和と愛と調和を流入することが極度に必要なのだと語っている‥

    BOB MARLEYが今までに授与された、多数の賞のリストは下記のとおり。

    ▼1976年: その年のベストバンド賞(ローリングストーン)
    ▼1978年6月:国連よりサードワールドの平和のメダルを授与
    ▼1981年2月:ジャマイカで3番目に高い名誉(ジャマイカのメリット勲位)を授与
    ▼1994年3月:ロックンロール栄誉の殿堂入り
    ▼1999年:20世紀ベストアルバム賞「Exodus」(タイムマガジン)
    ▼2001年2月:名声のハリウッドウォーク・スター賞
    ▼2001年2月:グラミー・ライフタイム・達成賞授与
    ▼2004年:ローリングストーンマガジンの100人のグレイテストアーティスト達の中から11位にランクイン
    ▼2005年:死後に出版された作品の達成賞
    ▼2005年:BBCより「ONE LOVE」がミレニアムソングに命名
    ▼2005年:BBCの世論調査により、最も偉大な作詞家の一人として投票獲得

    ファイル 193-4.jpg

    BOB MARLEY リリックのページはこちら!

    情報:YARDFLEX 写真:REGGAE BLOODLINES/株式会社ブルース・インターアクションズ
    翻訳&テキスト:RUFF-CUTかずみ



    VYBZ KARTEL - MOVADOを撃ったことを全面否定

    ファイル 198-1.jpg

    日曜日の夜、ダンスホールアーティストのVYBZ KARTEL(本名 ADIJAH PALMER)が、
    CASSAVA PIECEで、MOVADOとその取り巻きに向けて銃撃したという告発について、カーテルは全面否定している。

    カーテルはその日、PORTMOREのWATERFORDで開催された"サプライズ バースデーパーティ"(カーテルに内緒で計画された彼の誕生会)に出席していた。

    「俺はその事件のあった日、約400人もの人達と一緒に、サプライズ バースデーパーティに出席していた。
    人気アーティストと一緒に、俺のBMWに乗って、有名な場所に行ってたんだ。」

    この件はカーテルのキャリアを妨害し続けている"ALLIANCE"の計画的な陰謀であると彼は訴えた。

    「ヤツらが俺の名前を犯人に挙げているって聞いた時、またいつものやり方だと驚きもしなかった。
    実際、奴らとはリリックワーがずっと起きているが、あいつらの中傷は音楽の領域を超えている。
    これは、俺の発言に対して、俺を陥れるためのALLIANCEの陰謀だよ」
    とカーテルは言った。

    しかしダンスホールアーティストのMOVADO(本名 DAVID BROOKS)は、カーテルとはまったく違うことを語っている。

    今回の銃撃事件の関与にカーテルが直接関わっていると彼を非難しているのだ。

    「PATRICIA (ADIJAH) PALMER(カーテルの本名)は俺たちのコミュニティにやって来て、車で通り過ぎた。
    その時にヤツが撃った弾が、コミュニティの仲間の足に擦り、傷を負わした。
    もし本物のギャングが撃ってたとしたら、はずすわけがない。
    ST. ANDREWのCASSAVA PIECEで起こった事件のことを言ってるんだ 」
    とMOVADOは言った。

    ●ブリーチした肌の顔を目撃した!

    警察は、午後8:30頃、CASSAVA PIECEのガリーバンクとして知られる場所に、
    黒い車に乗った人気アーティストを含む男のグループがいたと確認している。

    車内にいた男達が、銃を振り回し、そこにいたグループに向って数発の銃弾を撃ち、一人の男性の足に当たったことも主張している。
    撃たれた男は、すぐに病院に運びこまれ手当を受けた後に退院した。

    警察は、事件の調査は早まっていると言っているが、真相はアーティスト同士の争いだと指摘する。
    また、その事件に関与しているガンマン達は、そこの居住者ではないことも特定している。

    事件の目撃者であるMOVADOは、黒のBMWの車内には、肌をブリーチして斑な皮膚のカーテルの顔が見えたと言っている。

    「みんなカーテルの顔を車内で見たって言ってる。
    その車が通り過ぎた時、車内にはブリーチした肌の顔が見えたのを俺は覚えているんだ。
    そいつは間違いなくカ-テルだった。
    BMWのタイヤもカーテルと同じものだった。
    だが、今ヤツの車は全部変えた。
    何故だ?? 」
    とMOVADOは尋ねた。

    今回の事件に拍車がかかったのは、MOVADOが最近リリースしたカーテルへのアンサーソングが原因だと言う。

    そのアンサーソングが元で、カーテルがMOVADO本人と彼のコミュニティに対し反撃したのだと・・・

    「カーテルにアンサーソングを返したまでは音楽のレベルだと言えるが、今回の事件は音楽のレベルとはまったく違うと思うね。
    ブリーチした肌のPATRICIA PALMER(カーテル)が一人の男を銃撃したことで、ヤツはアーティストとしてのキャリアを失ったんだ。 」

    「ヤツが車内から銃撃して、ストリートにいた俺の仲間を撃ったんだ。
    この事は、STAR紙(ジャマイカの新聞)の第一面に掲載するべきだ。」とMOVADOは言った。

    ●ボウンティの"バッドマインド"な指図

    ファイル 198-2.jpg一方、日曜日は、32歳の誕生日を祝ってもらっていたと言うカーテルだが、
    そのパーティの主催者から昼間はサッカーのイベントに誘われ、夕方からは誕生会に出席していた。

    カーテルは「すべては"ALLIANCE"のリーダーであるBOUNTY KILLERのBAD MINDな指図から起こったことだ」と繰り返し言っている。

    「これはALLIANCEとBOUNTYによる計画的な陰謀だ。
    だが、ヤツらの計画はうまくはいかない。
    ヤツらはたくさんの人達をDISSってるが、天罰はどこから来るのかわかってない 」 とカーテルは言った。

    MOVADOからどれだけ言われようが、
    カーテルの音楽的才能には、未だ高い評価があると彼自身主張している。
    (カーテルは肌をブリーチしてるとかインファーマだとか女だとかMovadoに歌われている)

    「ヤツ(MOVADO)にも才能はあるし、明るい将来もあるだろう。
    だがヤツがギャング人生から抜け出さない限り、
    俺のような本物のスターにはなれないだろうね」とカーテルは言った。

    (情報:STAR紙)
    翻訳:RUFF-CUTかずみ



    BEENIE MAN INTERVIEW PT.2

    ファイル 200-1.jpg

    ■BEENIE MAN INTERVIEW PT.2

    BEENIE MAN INTERVIEW PT.1 の続きです。
    (※)は私が付け足したコメント

    来る6月、VIRGIN RECORDSからBEENIE MANの4枚目のアルバムがリリースされる予定だ。

    BEENIE MANいわく、このアルバムは間違いなく100% DANCEHALLであり、その中の18トラックスは"DON CORLEONE"のプロデュースによるもの。その他にもR.KERRYとBEENIE MAN共同のプロデュースの曲も収録されているらしい。

    海外のラジオステーションには、すでにプロモート用として、BEENIE MANのシングル「HUM HUM」が送られているので、あとはプレイリストにその曲が追加されるのを待っている状況だとか。これが海外のラジオでオンエアされるようになると、今度はビルボードのチャートイン入り、そしてグラミー賞ノミネートへ続くとBEENIEは説明していた。

    「グラミーに選ばれることで自分が落ちるってことはまずないだろう。むしろ得ることの方が多いと俺は思うね」とBEENIE BANはグラミーのことを決して否定はしない。

    「今年のグラミーの予想をする限り、おれは"DAMIAN MARLEY"だと思う」と言っていた。

    (※今年で48回目になるグラミーにノミネートされたレゲエ部門のアーチストは、
    ★DAMIAN MARLEY
    ★SHAGGY
    ★SEAN PAUL
    ★BURNING SPEAR
    ★THIRD WORLD
    だったが、結果はビーニマンが予想したように、DAMIAN MARLEYことJUNIOR GONGが、今年の「ベストレゲエアルバム賞」と「ベストアーバンパフォーマンス賞」の2つを受賞した)

    「ヴァージンとの契約は来年いっぱいまでだ。
    だが俺の曲はアメリカよりも、アフリカやヨーロッパやブラジルの方がもっと売れるってことをヴァージンはわかっていない。
    ヴァージンはもともとアメリカの会社じゃないからさ。
    この契約が終わったら、俺はMAFIA HOUSEを通してSONY/EPICと契約するんだ。
    まずは今年マフィアハウスと契約する」とBEENIEは語っている。

    年末の「STING 2006」で、BEENIEは2回パフォーマンスをした。
    最初のステージに現れたのは夜中の1時近く。そして2回目に現れたのは終了間近の朝8時頃。
    なぜならその間にセントアンズのオチョリオス近くで行われた「TEEN SPLASH」に出演するため、キングストンとオチョリオスを往復していたのだ。

    BEENIEはキングストンのSTINGの会場に戻ってくる途中のガーデン・パリッシュ教会で、RUFF KUTのメンバーと会ったそうだ。

    「彼らは超ウィッキーでバッドなバンドだよ!まるでDeeJayそのものだね。
    もしRUFF KUTバンドにのせてDeeJayをやろうとしても、誰も出来ないだろうね。
    サウンドなんかよりずっといいよ」
    とBEENIE MANは語った。

    2004年1月15日にケイマナスの交差点付近で起きた車でのアクシデントにより大事故を起こしたBEENIE MANは、それ以来、夜中に自分で運転することが出来なくなってしまったそうだ。
    そのため夜中にハードな運転が伴うショーは一切行っていないということだ。

    ファイル 200-2.jpg
    (※写真はビーニマンが乗っていたGM HUMMERの事故直後の悲惨な状態)

    ■大流行のダンスについて

    一時のダンスブームのピークも過ぎたようだが、それでも熱狂的なダンス好き達は今もなお熱はさめずといった様子だ。
    これについて BEENIEは
    「もちろん今でもダンスは好きだし、ダンスするのはいいと思うよ。
    だけどちょっとTOO MUCHだね」と語っている。

    「今も男達はニューダンスを提案し、それを追っかけている。
    だが今はもう誰もアーチストはダンスの曲は歌ってない。
    まっ、ELEPHANT MANはだけは、全部のダンスネタを歌っているけどな、笑。
    だがな、ダンスだけでダンスホールを存続させることは出来んのだよ」

    BEENIE MANのスタイルが変わったのは5年くらい前から。
    それまでの彼はあちこちのダンスに出かけては、いつも派手に着飾り、みんなからハイプなやつだと言われていた。

    「派手に着飾ったビッグマンを見て嫌うやつはいないだろ。
    ハイプで派手なビッグマンはみんなから好かれるのさ。
    だからは俺はそうした。ダンスホールピープルってどんな人達のことを言うのか知っている?
    いかにハイプでなきゃ付き合えない連中かってことを知ってるかい?」
    とビーニマンは強く尋ねた。

    そして2001年、WILLIAM "HOGGART" MOORE(※当時のブラックローゼスの代表、ウィリアム・ハガート氏のこと)の突然の殺害事件の直後の時期、
    ビーニは冷えきったダンスホールの現場を立て直すため、精力的に活動していた。
    今現在はFIRE LINKSが精力的にセッションを行っている。
    (※どこの駐屯地であろうと!)

    ダンスに関していえば、ビーニは1990年代初期の頃からずっとダンスと関わっていた。
    その当時の彼はステージでタップダンスをやったりもしていた。

    「このダンスブームは純粋な反動から起きたものだよ。
    ところが、その反動が大きくなり今度はダンスで金が動くようになった(ビジネスになった)もんだから、急にみんながダンスをし始めたわけだ。
    今のBOUNTY KILLERを見てみろよ。
    やつまでがダンスをしている。」

    (※ボウンティキラーのニューダンス“キラーウォーク”のこと。これについてはまた後日ニュースを書きます!)

    ■流行をつくりだしたのは俺

    ファイル 200-3.jpg「去年、俺はカーテルにダンスについて尋ねたことがある。
    やつはダンスはしないと言っていた。
    ところが今年のSTINGで俺がカーテルにダンスの事を尋ねたらやつはダンスしてた。
    つまりこういうことだ。
    俺がこの流行をつくりだしたんだ。
    SHABBA RANKSが世界を又にかけて、先駆けしたように、
    俺がこの流行を先駆けたから、やつらもそれに続いた。
    SHABBAが先駆けして、俺とBUJU BANTONが後に続いたようにね。
    そして次にブジュがボスしたんだ。
    シャバはその後引っぱってはいけなかったが」とビーニマンは言った。

    「そして俺はドレスアップをし始めた。ベルサーチを着て、BMW、BENZ、LEXUSに乗り、家を買った。
    1992年から93年頃に流行ったアーチスト達の流行を先駆けたのは俺だ。
    スーツを買って着るようになって、もう昔のようにハロウィンのようなコスチュームを着るのは止めたんだ」とBEENIE MANは語った。

    「あの細いパンツを最初に履き始めたのは、誰だか知ってるかい?」とビーニマンは尋ねた。
    「君らが"BATTY MAN"と呼んでいる男達だ。俺の中ではもう終わっているスタイルだがね。もう2年前にベルサーチを着るのは止めたんだ。当時はパリやマイアミ、カナダまで買い物しに行ってたよ。だがもう俺は男のために服は着るのは止めた。俺は女が好きだから。やつらもその事に気が付いた時、今度は女の子達が好きだと思う服を着るようになるさ 」

    ■あとがき

    ここまでがBEENIE MANのインタビューのPT.2でした。
    とりあえず今回もここまでということで。最後のPT.3は、STINGでのボウンティとのクラッシュの話を始め、DAVE KELLY、D' ANGEL、そしてBLACK ROSESのことなどを中心としたインタビューです。(いつの更新になるかわかりませんが。。)

    (情報提供:THE STAR)
    Text: Ruff-Cutかずみ



    BEENIE MAN INTERVIEW PT.1 - JOHN HYPEと分裂?

    ファイル 206-1.jpg

    昨年の12月27日の朝、ポートモアのジャムワールドで行われた「STING 2006」の最後のステージでVYBZ KARTELとパフォーマンスをしたBEENIE MANは、レギュラーダンサーのJOHN HYPEと、今後はお互い別々に活動をしていくことを公表した。

    「今夜からJOHN HYPEはJOHN HYPE、BENNIE MANはBEENIE MANとして別々に活動していく。
    最近はJOHN HYPEなしでステージを7本こなした」とBEENIE MANは語った。

    「ジャマイカ国内ではJOHN HYPEとはほとんど一緒にやってない。
    海外でのショーとか、その他特別な時にしか一緒にやってないんだ。
    JOHNはジャマイカンマネーが強い時はたいてい海外にいるし、外国マネーが強い時はジャマイカにいる。
    彼がジャマイカでVAN(車)を買えばここにいるだろうし、ギャル達が周りに集まればJOHNはここにいるだろう」とBEENIE MANは説明した。

    BEENIE MANとJOHN HYPEは過去2年間の間に、熱いダンスブームを作り、ダンスホールのシーンでそれらがピークに達するまで、共に活動してきた。

    JOHN HYPEは「PON DE RIVER、PON DE BANK」のダンスを創ったことで一躍有名になり、ELEPHANT MANもそれと同名の曲で大ヒットを飛ばした。
    そして BETでヘビーローテーションで流れた BEENIE MANの"Dude"のビデオの中でも、JOHN HYPEの「PON DE RIVER、PON DE BANK」がヒューチャーされた。

    ■ 何も変わってない!

    ところが、THE STAR(ジャマイカ新聞)がダンサーのJOHN HYPEにインタビューをしたところ、
    その話(別々に活動すること)はBEENIE MANの一方的な発言だと言う。

    JOHN HYPEに言わせれば、BEENIE MANから直接その話しを聞いてないから、今までと何も変わっていないと主張した。

    「DOCTOR(ビーニマンのこと)が俺と一緒に仕事をしないって!?
    そんな馬鹿な。。。ただその場で言っただけだよ。
    俺にはさっぱり何のことかわからない。
    もし本当の話なら俺に直接言ってくるだろ。
    俺は本人から何も聞いてないよ。
    だからといってDOCTORを悪く言うつもりもない。
    今までと何も変わらない。
    それに俺はこれからアメリカでのショーの仕事が1本あって、今から出発するところなんだ」
    とJOHNは付け足した。

    ファイル 206-2.jpg
    (※写真はDANCER JOHN HYPE@HOTMONDAYZ PARTY AFFAIR 2K5)

    ■ BEENIE MAN INTERVIEW PT.1

    2005年の始め、セントアンドリューのコンスタントスプリングロードで起きたBOGLEの殺害の余波によって、世間からはBOGLEの事件と何かしら関係があるのでないかと注目された。
    そのためにBEENIE MANとJOHN HYPEは隠遁状態となった。

    その後BEENIE MANはテレビに出演し、1月に起きたBOGLEの殺害事件について、自分らは何の関係もないことを主張した。

    殺害されたダンサー GERALD 'BOGLE' LEVYの事件にまつわる「うわさ」のために、JOHN HYPEと共に隠遁しなければならなかったBEENIE MANにとって、2005年は決していい年の始まりとはいえなかった。

    夏の終わりまでジャマイカから離れて海外へと飛行した。

    しかし長年もめていたCAPLETONとBEENIE MANは2005年の間に"FIRE MAN'S"、"ST.MARY WE COME FROM"、"DOCTOR'S"、"SUMMER SIZZLE"などのビックイベントに一緒に共演し、二人の不和が和解した。

    2005年も終わりに近づき、12月26日のBOXING DAYの日に行われた「STING 2005」でのVYBZ KARTELとのパフォーマンス、そして大晦日に行われた「THE ORIGINAL JAM JAM」でのCAPLETONやNINJA MANとのパフォーマンスにより、BEENIE MANは再びトップの位置に戻った。

    ファイル 206-3.jpg
    (※写真はCAPLETON)

    骨折していた右手もようやく直り、次の夏に向けてVIRGIN RECORDSより4枚目のアルバムもリリースされる。

    以前のようにロードダンスで彼のヒット曲がヘビーローテーションでかかるようになる準備を整えるために、BEENIE MANは1月に休暇を取った。

    その休暇の間、ジャマイカ新聞「THE STAR」は、PEGASUSにてBEENIE MANの省略なしのインタビューを行った。

    先週の木曜日の夜、BEENIE MANはLICK A RIDDIMのチューンにドラムをセットする手配をしていた。
    THE STAR(ジャマイカ新聞)は、BEENIE MANとフィメール・シングジェイのD'ANGELが "MAFIA HOUSE PRODUCTION" で契約を交わしレコーディングした話など、最近の気になる点についてをインタビューした。

    「MAFIA HOUSEとSHOCKING VIBESは別々のレーベルなんだ。」とBEENIE MANは説明した。

    "MAFIA HOUSE"は、"DON MAFIA"と、"BEENIE MAN"、そしてBOUNTY KILLERの元彼女である"D'ANGEL"から成るレーベルだ。

    「"DON MAFIA"は、じつは"GRINGO"のことなんだ。
    GRINGOは過去にNINJA MANやBOUNTY KILLERなんかとすごいクラッシュをやってた。」
    と説明してくれた。

    2年以上前、BEENIE MANのキャンプにいたGRINGOはその後行方知らずとなっていたのだが、
    ここでGRINGOの所在があきらかになった。

    ■ 新しいイメージ

    以後、GRINGOは"DON MAFIAと"改名し、服装もスポーティな細身のピンストライプのスーツといった着こなしでイメージを変えた。

    「アーチストはみんなに格好よく印象づけるドレスアップが出来なければダメだね」
    とBEENIE MANは付け足した。

    「今、SHOCKING VIBESのプロデューサーSCATTAと競い合うようなプロデューサーが山ほどいる。SHOCKING VIBESはもともとアーチストを扱うのが仕事だ。
    俺たち"MAFIA HOUSE"は歌うことだけが仕事じゃない。
    ところが、いいリディムを持っているのはほとんどがプロデューサなんだ。」
    とBEENIE MANは言った。

    「だから、時々若いDEEJAYとリディムを扱う時に問題が生じる。それが暴力や犯罪にまで発展することもある。そんな時どうする?」
    まだまだ解決していかなければいけない問題が山ほどあるのだ。

    "MAFIA HOUSE"で今製作中のアルバムは、D' ANGELの「THE BLESSED CHILD」、DON MAFIAの「IT'S REAL」、そして今もなおSHOCKING VIBESに所属するBEENIE MANの「ME IS THE CEO OF MY COMPANY」である。

    ファイル 206-4.jpg
    (※写真はD' ANGEL /YARDFLEX.COM)

    「アーチストを扱うというのは、イコール教育することなんだ。
    すべて教えていかなきゃいけない。
    もしアーチストの時間が足りなければ時間調整してやる。
    発音が悪ければ直してやる。
    そういったことを俺は"DON MAFIA"と"D'ANGEL"と一緒にやっていくつもりなんだ。

    たとえば 今のVYBS KARTELなんかがいい例だな。
    カーテルはBAD DEEJAYだが、キラーがいろいろ教えたり、リリックスをチェックして、カーテルのためにリリックスを書いたりもした。
    そういうのを手助けとは言わない。
    協力って言う。」
    「俺は、キラーがカーテルにしてやったことを高く評価している」
    とBEENIE MANは付け足した。

    しかしボウンティを高く評価しているにもかかわらず
    「ELEPHANT MANに続く今の若手アーチスト達は、いずれ俺のいる位置まで来ようとするだろう。
    やつらはBOUNTY KILLERにひけをとらないかもしれない。
    だが誰一人として俺のチューンにかなう者はいない。
    俺を負かすには才能で勝負するしかない」
    と主張した。

    「キラーは、誰のことも上げることはしないだろうね。
    若い取り巻きを周りにつけているのは、DEEJAYにとって都合がいいからだろ?
    カーテルは俺の邪魔をしたけどな。
    だが誰も俺以上最悪な状況に陥ることはないだろうね」
    とBEENIE MANは言った。

    「俺のDEEJAY歴は28年。やつらより年も上だ。
    だがジャマイカにいるすべてのアーチストが再思案する能力があるわけじゃない。
    SIZZLAやCAPLETONのように」
    とBEENIE MANは言った。

    「昨年から俺の道のりはハードだった。
    だからといってすぐにカーテルに俺の位置を譲るわけにはいかないんだ。
    なぜなら奴らはまだ若いから。
    奴らを仕切っていかなきゃいけないって自分自身よくわかってるからさ。」

    「俺の3歳の娘はBOUNTY KILLERを知らない。
    BUSY SIGNALも知らない。VYBZ KATELも知らない。ASSASSINも知らない。
    だがBABY CHAMのことはニューチューンまで知っている。

    14歳の娘は『ダディ、今日もラジオでダディの歌が流れないわね』
    と言ってはオレに仕事を続けさせようとしている。」
    とBEENIE MANは語った。

    ファイル 206-5.jpg
    (※写真はBEENIE MAN /YARDFLEX.COM)

    ■あとがき
    ここまでが最近のBEENIE MANのインタビューのPT.1でした。
    じつはこのBEENIE MANのインタビューは "PT.3"まで続きます。
    とりあえず今回はPT.1までということで。
    もし続きが読みたいという方がいたらご一報ください。
    気合いと時間があったら続きを書くかもしれません。

    (情報提供:THE STAR)

    text: Kazumi(Ruff-Cut)



    VYBZ KARTEL 電撃結婚!!

    ファイル 208-1.jpg

    2006年最初のジャマイカニュースはめでたいネタということで「カーテルの電撃結婚」のニュースから!

    昨年12月、キングストンのセントアンドリューにあるトレベニオンパークでは、一流DeeJay、Mr. PalmerことVYBZ KARTEL(ヴァイブスカーテル ※本名Adidjah Palmer)の結婚式と披露パーティが行われた。

    写真はプライベートな披露パーティでのヴァイブスカーテルと、そのフィアンセのステイシー・エリオット。

    豪華な白のシルクのドレスを身にまとっているのが新婦のステイシー。
    彼女はニューヨークのブロンクスに在住する31歳の銀行員の女性。

    一方、カーテルはバッドな匂いを漂わせる黒のスーツに白のシャツを合わせ、ブリンブリンのジュエリーをつけて、白のイタリア製のレザーシューズでサグスタイルを決めている。

    (※写真撮影:カーリントン・ウィルモット氏)

    ジャマイカ新聞「THE WEEKEND STAR」のインタビューによると、
    カーテルは先週、いきなり結婚することを決意。

    ジャマイカで式を挙げるためにニューヨークに住むステイシーを急遽呼んだそうだ。
    カーテルいわく彼女の花婿には自分が一番ふさわしいと思って結婚を決めたとか。

    「 すべてうまくいってるし、何より彼女を愛してる。俺は幸せもんさ。結婚はすばらしい!」
    と花嫁ステイシーの手をにぎにぎしながら、興奮ぎみにインタビューに答えるカーテル。

    結婚披露パーティでは、彼の息子と花嫁のステイシーと一緒に写真撮影をしたり、仲間達とジョークをかわしていたらしい。

    カーテルと花嫁のステイシーは、2001年にブルックリンで行われたボウンティキラーのステージショーで初めて出会い、その後二人はすぐに交際を始めた。

    「初めてステイシーと会った時に、彼女はスペシャルだってすぐに気付いたね。
    それからしょっちゅう電話で話すようになって‥。もちろん彼女はグルーピーとかじゃなくて、俺たちは少しずつ真剣に恋に落ちていったんだ。

    遠距離恋愛だったけど、俺がニューヨークに行く時は、ずっと一緒にいるよ。
    お互い話もよくするし、時には議論しあったりもする。
    それに彼女にも自分の仕事(銀行員)があるからね。
    あぁ…愛っていうのはなんてすばらしいんだ‥そうだろ??ガハハハ‥
    頼むから話をこじらせないで報道してくれよ。サグも恋に落ちるってか!?」
    とカーテルは大笑いしながらインタビューに答えた。
    二人のハネムーン先はモベイだそうだ。

    「今日は待ちになった結婚式だからな。何もこわいものなんてないさ。
    まっ、俺もいつまでも若いノリでやってられないってことだ。
    イメチェンってやつだな。

    ファンの女の子達は俺を取られたって思うかもしれないが、きっとわかってくれるって信じてるよ」
    とカーテルは笑った。

    ファイル 208-2.jpg
    (写真:JAMAICAN MUSIC VIDEO VOL.44より)

    カーテルの花嫁ステイシーはキングストンで育ち、8歳の時にアメリカ合衆国へと移住した。

    「彼の性格が好きなの。一緒にいて楽しいし、彼には愛があるから。
    それに頭がいいわ。
    本人は気付いてないみたいだけど!彼にはすばらしい才能があるの。

    初めて会った時から、私は彼に夢中になったわ。
    先週彼から突然のプロポーズを受けた時は、不思議なことに驚かなかった」
    とステーシーは語った。

    ステイシーはハネムーンの後、一緒に新年を迎え、ブロンクスに帰国する予定。

    ところで来週開催されるSTINGの前に結婚なんてしちゃって、軟弱なDeeJayになってしまうのでは??との質問に、カーテルは
    「おい何いってんだい!? 来週のスティングも俺様がステージに立てばみんなマショップするに決まってるわ!
    スティングは俺様の場所だぜ。
    今から楽しみで仕方ないよ、ガハハハ‥」
    と余裕をかますカーテルでした。

    次号のジャマイカニュースでは「STING 2005」の記事を紹介します。
    お楽しみに♪

    今年も「ジャマイカニュース」を宜しくお願いします。

    (情報提供: Jamaica Star Com)

    text: Kazumi(Ruff-Cut)



    ELEPHANT MAN INTERVIEW

    ファイル 218-1.jpg

    Q: ビジネスはどうやってスタートしたの?

    Elephant man: みんなが知っているように、俺らはSeaview Gardenで育って、そこで音楽をやっていて King Jammy の スタジオに通い始めたのが始まり。
    King Jammyのスタジオを離れるまで、Scare Dem Crewとしてずっと Deejayをやっていたよ。
    Elephant manとして独立するまでは、Scare Dem Crewで活動してた。

    Q: 歌うってことで影響を受けた人物っている?良き助言者とか....

    Elephant man: Shabba RanksとSuper Catだな。

    Q: アメリカのオーディエンス達に伝えたいことは?

    Elephant man: みんなダンスをして自分自身が楽しめってことだな。
    そんでいい音楽をみんなに聴かせていきたい。
    かつてみんなが耳にしたことがないような音楽をね。

    Q: エンターテイナーとして、この業界でビジネスをしていく上で大切なことって?

    Elephant man: 重要人物と知り合えるってことかな。
    例えば... プロデューサーとか映画監督とかビデオ監督に会ったり。

    Q: 歌っていくことで一番の夢は?

    Elephant man: 一番の夢は、この音楽をAnother Lebelに!

    Q: 今後、映画やDVDに出演する予定はある?

    Elephant man: オファーがあれば何でも。

    Q: あなたの生涯の中で誰か特別な女性っているの?

    Elephant man: (笑いながら)今はいない。

    Q: 新しいレゲエの波が来ているけど、それについてどう思う?
    Sean Paulとかもすごい人気よね。この波はずっと続くと思う?

    Elephant man: もちろん続くさ。
    何故ってみんながそれぞれ自分のやるべき仕事をしているからいろんな波が起きている。
    みんながそれぞれ自分の役割を果たしている限り、それはずっと続くんだ。
    マジだぜ。

    Q: OK!! 最後に何かみんなに言いたいことは?

    Elephant man: BETのビデオに投票してくれ!
    あと大切なことは LOVE とGOD と LIVE だ。
    そうそう俺のブランニューアルバムが12月2日に発売されるからチェックしてくれ。
    GOOD TO GO!!

    情報:http://www.dancehallareaz.com/

    (Kazumi@Ruff-Cut)



    PREDATOR INTERVIEW

    Predatorといえば、Kiprichとのコンビネーションチューン、
    Gallopオケの"Head nuh good"(Builders) や Danger Ruffオケの"Follow back a"(Danger Zone)、

    そして Coolie Danceオケの"Head a fly"(Kings Of Kings)やDanger Ruffオケの"War editor"(Danger Zone)など数々の ヒットチューンで なじみのある2003年の代表Deejayの一人である。

    このPredatorのプロフィールとインタビューの記事をを入手したので、
    ここでちらっと紹介したいと思う。

    ステージネーム:

    Predator

    本名:

    Mark Anthony Henry

    生年月日:

    1974年9月14日

    生誕地:

    Pink Lane, West Kingston

    学歴:

    St Annの中等学校、 Shettolah Park Primary

    好きな食べ物:

    Mackerel and Rice(Mackerel = さば)

    "Predator"の名前の由来は?:

    1991年にMad Cobraが俺を見て"Predator"と名付けた。
    (ちなみに "Predator"の意味は捕食者とか略奪者の意味がある)
    Grants Penのやつらがこの名前を取って俺につけたんだ。
    ※Grants Penとは"Predator"の地元

    "Predator"が売れたきっかけは?:

    去年の8月にBounty Killerとリンクアップした時さ。
    ビッグチューンにフューチャーリングっていう初めてのチャンスを与えてくれたんだ。
    すべてはそこからが始まりだ。

    他に"Predator"の支持者って?:

    Grants Penのコミュニティだな。
    何故なら俺がDeejayを続けていくことをずっと支持してきてくれたから。
    これを貫き通してあきらめるなと...
    俺はGrants Penに11年間住んでいるんだが、
    いつかは俺がこのコミュニティの支えになりたいと思っている。

    好きなアーチストは?:

    地元では Ninja Ford、Mad Cobra、そんでBounty Killerだな。
    インターナショナルではSnoop Dogg。

    目標は?:

    自分のキャリアを生かして上がっていきたいね。みんなもそう思ってるはずさ。
    目標は Grands Penのコミュニティをもっと良くしたいってことだ。
    なんたってGrands Penは本当にいい場所だからね。

    情報:http://www.dancehallareaz.com/

    (Kazumi@Ruff-Cut)



    No More Violence and Gun Tunes by Marciless

    ファイル 249-1.jpg

    「"暴力ネタ"や"ガンネタ"のチューンはもう止めろ!」とMerciless(マーシレス)が訴えているらしい。

    たくさんの犯罪や暴力が徐々に社会を破壊している中、
    Mercilessは、すべてのBad manチューンは止めて"女の子の歌やカルチュラルな歌を(本来の彼のテーマでもある)再び盛り上げていくと訴えている。

    Mercilessによると
    「今のユース(若い世代)達に、すべてのBad man的な考えをやめさせ、ポジティブな考え方を教えてやるのが、俺達DJの仕事なんだ。
    俺だったら、ガンチューンだとか誰がグラミー賞を取ったとか1位になったとか、そんなくだらない歌は聴きたくないね。
    そんなことを歌ってたら、いつまでたっても"ビジネス"にならんよ。」

    Mercilessは、"Old Gails"や"Mamas Cooking"、"Mavis and Gizarda"などを歌った時代に戻ろうと考えている。
    すべてがポジティブなバイブスから来るものなのだ。
    それってクラッシュは、もうやらないってことなのだろうか?

    Mercilessはこう語っている。
    「俺だって、どこででもクラッシュをやるわけじゃない。誰もがやれるもんでもないし、誰もが語れるもんでもない。
    あのクラッシュ(Sting2000)は個人的感情が入りすぎだ。
    脅かすつもりはないが、 このまま行くと、"Tupac Shakur"と"Notorious Big"の筋書きのような展開になりかねないね!
    音楽的なステージの場で、個人的なクラッシュをするなんて、とんでもないことだ。
    こんな事ばかりしてたら、みんな離れていくさ。
    ましてや個人攻撃なんてくそくらえだ!
    それより、ステージを見ている人達を、より熱くさせて、よりレベルの高いところに導いていくことの方がよっぽど大事なことさ。
    このままいけば、間違いなく何か問題が起きる。
    だから俺はクラッシュの熟練者になる前に、クラッシュから手を引こうって決めたわけさ。
    アーチストってのはクリエイティブでなければいけないし、エンターテイナーに徹するべきだし、上に上がっていかなきゃいけない。
    暴力ネタやガンを正当化するような曲には、みんなもうんざりしているってことは判ってるんだ。」

    実際、彼がステージで昔の曲や女の子の曲を歌うと、決まって盛大な歓声を受けるそうだ。

    「みんな、そういう曲が好きなんだよ。判るだろ?だから俺はみんなが好きな歌をうたうのさ。」

    "Warhead"というステージネームで軍服を身にまとい、武装して"Sting2000"のクラッシュに勝ったMercilessは皮肉なことに人気急上昇。
    最近では、彼のマネージャーを努めるGadaffi氏がイギリスの"Greensleeve Record"と契約しMercilessのアルバムを完成させた。

    一方Mercilessは、国内や海外のイベント出演依頼が殺到しているそうだ。
    Gadaffi氏は、
    「Mercilessがインターナショナルのレベルに達するためにもいろいろな活動している。
    そうなるために私たちは大きなプランを立てている。絶対に成功させるつもりさ。」と語った。

    2001年3月30日、コネチカット州(米国北東部の州)の首都Hartfordにある"West Indian Social Club"では
    Mercilessが出演したコンサートのチケットはすべて完売。
    そのコンサートでは、Mercilessの他にもダンスホールの議論好きの女性DJの二人Lady SawとCecileが出演し、観客達を充分満足させた。
    The Annex ProductionとLaughy主催のそのイベントは大成功。

    その後、MercilessはFlorida州のJacksonvilleへと飛び、日曜日には"Mayfair Club"で行われるステージショーに出演。
    月曜日にはNew Yorkへ戻り、アルバムのプロモーションの仕事。

    その後彼はJamaicaに帰国し、いくつかの新曲をリリースするためスタジオに通っているそうだ。

    STING2000のDVDはこちらで購入出来ます

    (Kazumi@Ruff-Cut)



    Bounty Killer Interview - More Artiste Saddle Up

    ファイル 266-1.jpg

    2000年12月25日に行われた毎年恒例のステージショー"Saddle 2000"。

    今年のイベントのテーマは"新世紀、愛を呼び戻そう"。

    このBounty Killa 恒例のクリスマスステージショーは
    ジャマイカで最も大きなミュージカルフェスティバルアトラクションの一つだ。

    昔から現在に至るまでのダンスホールとレゲエミュージックを集結させ
    それぞれの時代に反映してきたアーチスト達をラインナップしている。

    「毎年、このイベントには、友達のUSラッパーを呼ぶんだ。」

    最近のBounty Killaのインタビューだ。

    「しかし、ジャマイカのカルチャーは年々失われてきている。
    カルチャーこそ、ジャマイカを愛する世界中の人達が求めてきたものなのに。
    俺達のミュージックもカルチャーもずっと本物でなきゃ駄目なのさ。
    俺達の島は絶対に米国化させない。
    ここはジャメリカ(皮肉った言葉)じゃない!」

    Bounty Killaはそう付け足した。

    約50人の出演者達がすでにラインナップされている。
    ポスターに全員の顔を載せるのは無理なほどの顔ぶれである。

    「"Saddle 2000"ではみんながユニティとなって争うことも忘れる。
    そして、みんなに手本を見せるのさ。
    俺達はジャマイカに愛を取り戻さなければいけない。
    ばらばらになっちまってるレゲエがまず統一しなきゃいけないんだよ。
    ユニティなステージショーこそ俺達がみんなに伝えなきゃいけないことなんだ。」

    世界中のあちこちからこのイベントへの反響や意見がBountyの元に届くらしい。
    圧倒的な支持者達が世界中にいるそうだ。

    「ナイジェリアからニュージーランド、それにインドからリトアニアまで各国から毎日のように俺のところにe-mailが届く。
    Saddle 2000"をやることに喜びやお祝の言葉が記されたメールさ。」
    と彼は言った。

    このイベントに出演予定のアーチスト達は、
    Capleton, Ninjaman, Freddie McGregor,Liciano, Morgan Heritage, Scare Dem Crew,Baby Cham, George Nocks, Anthony B, Cobra, Coco Tea, Lady Saw, Degree, Tony Rebel,Pinchers, Bling Dawg....他多数。

    "Saddle 2000 - Bring Back the Love"に最もふさわしいベテランレゲエシンガーも出演する。
    その一人はBeres Hammond。
    その場で彼の歌を聴いたなら誰もが魅了されてしまうはず。
    もう一人のシンガーはBarrington Levy。
    20年以上ビジネスのトップ業界にいるベテランシンガー。
    最近ではラッパーのShynesとコンビのスマッシュヒットシングル"Bad Boyz"が大当たり。

    その他にも、サウンド編ではTony Matterhorn, Fire Linx, Skyjuice。
    マイアミからはDJ Khaled。
    JugglingはSound WaveとMario C。
    ショーのスタートは8:00pmぴったりからの予定。

    「みんなすでに知っているとは思うけど"Saddle to the East"の時も大勢の人達が来て大混雑したから今回も会場には早めに来た方がいい」
    とBounty Killa Campからのアドバイス。

    「一つのショーも見のがさないためにも渋滞に巻き込まれないためにも早めに来ること」
    と付け足した。

    チケットは前売りでJA$500、当日でJA$600。
    なんと学生には学生割引きがある。
    前売りだったら学生証持参すればJA$300で購入できる。(一人2枚まで)

    この日出演する予定のアーチストのギャラはフリーなんだって。

    もっと詳しい詳細は"Bounty's official web site"でチェックできる。

    (Kazumi@Ruff-Cut)