最近のコメント

  • Re:Baby Cham ft Bounty Killer & Mykal Rose - Stronger
  • (SEXY-P)
    2010/12/10
  • Re:Voice MailとCobra続報2
  • (jj)
    2010/05/27

    カテゴリ一覧

    プロフィール

    Ruff-Cut Crew

    コンテンツ

    過去ログ

    INFORMATION

    全記事をカテゴリ別に表示しました。またバックナンバーのリリックスやインタビュー、リポートなどもログ検索から簡単に探すことができるようになりました。(7/2010)

    ※画像をクリックすると拡大して見れます。
    (Ruff-Cut)

    記事一覧

    偉大なるROBERT NESTA MARLEYへの敬意

    ファイル 193-1.jpg

    毎年2月6日は、偉大なるRobert Nesta Marley(ロバートネスタマーリー)を追悼して、世界中で祝賀と賛辞を祝う。
    1945年のこの日に生まれ、36才で脅威的なガンに屈し、1981年5月11日、あまりに早すぎる命を奪われた。

    ボブマーリーはジャマイカでメリット勲位を含むいくつかの賞賛を誉め称えられ、
    世界中のファンによってキング オブ レゲエミュージックの称号を得た。

    若かったボブマーリーがとてつもない芸術的成功を得るまでには、
    セント・アンズのナイン・マイルズとトレンチタウンというインナーシティでの非常に卑しい生い立ちが始まりであり
    それが彼のパワフルな力となっていた。

    世界中の人達にもたらすボブマーリーの説得力のある革命的な考え方は長い間生き続けている。

    1979年、ヨーロッパでのインタビューにおいて、
    マーリーは核兵器や戦争への反対、制度をくつがえすための嘘の事実、
    また核兵器を作り出した者達の計画や改悪があることなどを強く語った。

    「科学者達は私が言っていることにはまったく耳を傾けず、いまだに兵器の研究ばかりしている。
    しかし、彼らが永久に正しいものを作り出さず、人々を殺すための兵器を作り続けるならば、
    彼らもその兵器と一緒に破滅することになるだろう 」
    とMARLEYは意見を述べた。

    彼は
    「貧困者達は決して忘れられることはない、そして高潔な人間の予言は決して滅びないのだ」と続けて語った。

    ボブマーリーは、ラスタファリの精神的な哲学を世界中の人達に受け入れてもらうため、
    主に彼の音楽を通じてその教えをもたらした。

    「私は何の宗教にも属していない。
    ラスタとはライフなのだ - 私は私である…私はラスタマンだ。」

    ボブは、かつてインタビュアーに宣言したことがあった。

    平和と愛と真実のメッセージは、ボブの心臓の鼓動から来るものであり、
    彼にとってこれらのメッセージは世界に開かれた成功への扉でもあった、と‥

    そして1964年、ジャマイカの音楽シーンに最初の大きな衝撃を与えたのは、
    ボブマーリー、ピータートッシュとバニーリヴィングストンからなるウェイラーズのメンバーだった。

    ファイル 193-2.jpg
    ※写真は1967年頃のウェイラーズ三人衆
    (写真:REGGAE BLOODLINES/株式会社ブルース・インターアクションズ)

    ウェイラーズの革命的な音により、今までのジャマイカンミュージックの歴史を燃やした最初のシングルは
    "Simmer Down" "Soul Rebel" そして "400 Years"になる。

    同様に70年初期に出したデビューアルバム"Burnin" と "Catch A Fire"は
    ウェイラーズの注目を集めることとなった。

    しばらくボブマーリーはリー"スクラッチ"ペリーと一緒に活動をした。

    後の1969年頃、海外の任務を終えジャマイカに帰国した友人のサッカー選手のスター、アラン"スキリー"コールと再会。
    グループを再編成した。

    「10代の前半から我々はサッカーの練習で会っていたから、心からのフレンドシップをとれた。
    そして緊密な繋がりを持っていったんだ。この関係だけは、本当のリレーションシップといえるだろう」

    我々は、兄弟よりも近かった‥
    我々は、一つの血で繋がっていたんだ。

    スキリーが説明した。
    「彼らはタフゴング レコードをつくり、そこからリリースをし続けたんだ。」

    「それからアイランドレコードがやって来た」

    スキリーにとって、ステージ裏でのボブへの精力的なサポートは大きな喜びであった。
    計り知れないほど貴重なアドバイスの提供者だったスキリーはボブに高く評価されていた。

    それは、お互いに専念したサッカーに対する愛情の共有性だったのかもしれない。

    スキリーとボブが息がぴったり合っていたという行動指針なのか、または二人とも似たような価値観を持っていたからかもしれない。
    どっちにしても、ボブの最後の日、彼らの友情関係がもっと強くなったことだけは間違いなかった。

    ファイル 193-3.jpg
    ※写真はアラン"スキリー"コール(前列中央)率いるサッカーチーム、ザ・ハウス・オブ・ドレッド
    (写真:REGGAE BLOODLINES/株式会社ブルース・インターアクションズ)

    肉体的に、そして情緒の心の支えとなり、ボブから離れなかったスキリーは、
    終局の日々の中で、黒色腫(しゅ)と言う命を奪う恐ろしい皮膚癌と戦うボブについて強く語った。

    それは、ボブがサッカーをしていた少年時代の1970年に始まった。

    ある日、彼は2週間の休養が必要となるほど、ひどい反則のタックルを受けた。

    1977年、再び病気が再発し、ボブの怪我は、最も悪性の皮膚がんの1つ、致命的な黒色腫(しゅ) だと診断された。

    スキリーは、ボブが足の爪を剥がさなければいけなかったこと、厳しいダイエットが必要だったことなど、彼の治療と副作用について語った。

    ボブの病気による、ステージでの衝撃的な徴候が起きた時のことを、スキリーは続けて話した。

    ファイル 193-5.jpg「ボブがセントラルパークで倒れたとき、彼は私の手の中にいた...
    彼が回復することを望み、あらゆる時でも彼とずっと一緒にいた。」

    当時、ボブが受けていた化学療法は、結果的に有益なことより有害なことの方が多いように思えた。
    そのため、ボブはもっと新しくてより自然療法を求め、ドイツに旅立ったのだと説明した。

    兄弟とドイツに旅立った時、スキリーだけでなくボブの周りの人達すべてが愕然としたことが起きた。
    それはボブの髪の毛が抜け落ちた時だった‥とスキルは語った。

    逃れられないことに立ち向かうということは、厳しい敗北のようだった。
    そして、ボブとウェイラーズによって作られた多数の遺作は慰めを残した。

    スキリーは兄弟を失った。
    1981年の運命づけられた日・・・
    セデラブッカー、ボブの母親、息子とリタマーリー、ボブのベイビーマザー達と彼の子供達は、心の友と父親を失ってしまった。

    しかし、ボブの誕生日が2月6日であるにせよ「ナチュラル・ミスティック」の歌のように、
    ボブのメッセージにある"否定できない真実"は、我々の世界に絶えず伝えられている。

    それは、平和と愛と調和を流入することが極度に必要なのだと語っている‥

    BOB MARLEYが今までに授与された、多数の賞のリストは下記のとおり。

    ▼1976年: その年のベストバンド賞(ローリングストーン)
    ▼1978年6月:国連よりサードワールドの平和のメダルを授与
    ▼1981年2月:ジャマイカで3番目に高い名誉(ジャマイカのメリット勲位)を授与
    ▼1994年3月:ロックンロール栄誉の殿堂入り
    ▼1999年:20世紀ベストアルバム賞「Exodus」(タイムマガジン)
    ▼2001年2月:名声のハリウッドウォーク・スター賞
    ▼2001年2月:グラミー・ライフタイム・達成賞授与
    ▼2004年:ローリングストーンマガジンの100人のグレイテストアーティスト達の中から11位にランクイン
    ▼2005年:死後に出版された作品の達成賞
    ▼2005年:BBCより「ONE LOVE」がミレニアムソングに命名
    ▼2005年:BBCの世論調査により、最も偉大な作詞家の一人として投票獲得

    ファイル 193-4.jpg

    BOB MARLEY リリックのページはこちら!

    情報:YARDFLEX 写真:REGGAE BLOODLINES/株式会社ブルース・インターアクションズ
    翻訳&テキスト:RUFF-CUTかずみ