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BEENIE MAN INTERVIEW PT.2

ファイル 200-1.jpg

■BEENIE MAN INTERVIEW PT.2

BEENIE MAN INTERVIEW PT.1 の続きです。
(※)は私が付け足したコメント

来る6月、VIRGIN RECORDSからBEENIE MANの4枚目のアルバムがリリースされる予定だ。

BEENIE MANいわく、このアルバムは間違いなく100% DANCEHALLであり、その中の18トラックスは"DON CORLEONE"のプロデュースによるもの。その他にもR.KERRYとBEENIE MAN共同のプロデュースの曲も収録されているらしい。

海外のラジオステーションには、すでにプロモート用として、BEENIE MANのシングル「HUM HUM」が送られているので、あとはプレイリストにその曲が追加されるのを待っている状況だとか。これが海外のラジオでオンエアされるようになると、今度はビルボードのチャートイン入り、そしてグラミー賞ノミネートへ続くとBEENIEは説明していた。

「グラミーに選ばれることで自分が落ちるってことはまずないだろう。むしろ得ることの方が多いと俺は思うね」とBEENIE BANはグラミーのことを決して否定はしない。

「今年のグラミーの予想をする限り、おれは"DAMIAN MARLEY"だと思う」と言っていた。

(※今年で48回目になるグラミーにノミネートされたレゲエ部門のアーチストは、
★DAMIAN MARLEY
★SHAGGY
★SEAN PAUL
★BURNING SPEAR
★THIRD WORLD
だったが、結果はビーニマンが予想したように、DAMIAN MARLEYことJUNIOR GONGが、今年の「ベストレゲエアルバム賞」と「ベストアーバンパフォーマンス賞」の2つを受賞した)

「ヴァージンとの契約は来年いっぱいまでだ。
だが俺の曲はアメリカよりも、アフリカやヨーロッパやブラジルの方がもっと売れるってことをヴァージンはわかっていない。
ヴァージンはもともとアメリカの会社じゃないからさ。
この契約が終わったら、俺はMAFIA HOUSEを通してSONY/EPICと契約するんだ。
まずは今年マフィアハウスと契約する」とBEENIEは語っている。

年末の「STING 2006」で、BEENIEは2回パフォーマンスをした。
最初のステージに現れたのは夜中の1時近く。そして2回目に現れたのは終了間近の朝8時頃。
なぜならその間にセントアンズのオチョリオス近くで行われた「TEEN SPLASH」に出演するため、キングストンとオチョリオスを往復していたのだ。

BEENIEはキングストンのSTINGの会場に戻ってくる途中のガーデン・パリッシュ教会で、RUFF KUTのメンバーと会ったそうだ。

「彼らは超ウィッキーでバッドなバンドだよ!まるでDeeJayそのものだね。
もしRUFF KUTバンドにのせてDeeJayをやろうとしても、誰も出来ないだろうね。
サウンドなんかよりずっといいよ」
とBEENIE MANは語った。

2004年1月15日にケイマナスの交差点付近で起きた車でのアクシデントにより大事故を起こしたBEENIE MANは、それ以来、夜中に自分で運転することが出来なくなってしまったそうだ。
そのため夜中にハードな運転が伴うショーは一切行っていないということだ。

ファイル 200-2.jpg
(※写真はビーニマンが乗っていたGM HUMMERの事故直後の悲惨な状態)

■大流行のダンスについて

一時のダンスブームのピークも過ぎたようだが、それでも熱狂的なダンス好き達は今もなお熱はさめずといった様子だ。
これについて BEENIEは
「もちろん今でもダンスは好きだし、ダンスするのはいいと思うよ。
だけどちょっとTOO MUCHだね」と語っている。

「今も男達はニューダンスを提案し、それを追っかけている。
だが今はもう誰もアーチストはダンスの曲は歌ってない。
まっ、ELEPHANT MANはだけは、全部のダンスネタを歌っているけどな、笑。
だがな、ダンスだけでダンスホールを存続させることは出来んのだよ」

BEENIE MANのスタイルが変わったのは5年くらい前から。
それまでの彼はあちこちのダンスに出かけては、いつも派手に着飾り、みんなからハイプなやつだと言われていた。

「派手に着飾ったビッグマンを見て嫌うやつはいないだろ。
ハイプで派手なビッグマンはみんなから好かれるのさ。
だからは俺はそうした。ダンスホールピープルってどんな人達のことを言うのか知っている?
いかにハイプでなきゃ付き合えない連中かってことを知ってるかい?」
とビーニマンは強く尋ねた。

そして2001年、WILLIAM "HOGGART" MOORE(※当時のブラックローゼスの代表、ウィリアム・ハガート氏のこと)の突然の殺害事件の直後の時期、
ビーニは冷えきったダンスホールの現場を立て直すため、精力的に活動していた。
今現在はFIRE LINKSが精力的にセッションを行っている。
(※どこの駐屯地であろうと!)

ダンスに関していえば、ビーニは1990年代初期の頃からずっとダンスと関わっていた。
その当時の彼はステージでタップダンスをやったりもしていた。

「このダンスブームは純粋な反動から起きたものだよ。
ところが、その反動が大きくなり今度はダンスで金が動くようになった(ビジネスになった)もんだから、急にみんながダンスをし始めたわけだ。
今のBOUNTY KILLERを見てみろよ。
やつまでがダンスをしている。」

(※ボウンティキラーのニューダンス“キラーウォーク”のこと。これについてはまた後日ニュースを書きます!)

■流行をつくりだしたのは俺

ファイル 200-3.jpg「去年、俺はカーテルにダンスについて尋ねたことがある。
やつはダンスはしないと言っていた。
ところが今年のSTINGで俺がカーテルにダンスの事を尋ねたらやつはダンスしてた。
つまりこういうことだ。
俺がこの流行をつくりだしたんだ。
SHABBA RANKSが世界を又にかけて、先駆けしたように、
俺がこの流行を先駆けたから、やつらもそれに続いた。
SHABBAが先駆けして、俺とBUJU BANTONが後に続いたようにね。
そして次にブジュがボスしたんだ。
シャバはその後引っぱってはいけなかったが」とビーニマンは言った。

「そして俺はドレスアップをし始めた。ベルサーチを着て、BMW、BENZ、LEXUSに乗り、家を買った。
1992年から93年頃に流行ったアーチスト達の流行を先駆けたのは俺だ。
スーツを買って着るようになって、もう昔のようにハロウィンのようなコスチュームを着るのは止めたんだ」とBEENIE MANは語った。

「あの細いパンツを最初に履き始めたのは、誰だか知ってるかい?」とビーニマンは尋ねた。
「君らが"BATTY MAN"と呼んでいる男達だ。俺の中ではもう終わっているスタイルだがね。もう2年前にベルサーチを着るのは止めたんだ。当時はパリやマイアミ、カナダまで買い物しに行ってたよ。だがもう俺は男のために服は着るのは止めた。俺は女が好きだから。やつらもその事に気が付いた時、今度は女の子達が好きだと思う服を着るようになるさ 」

■あとがき

ここまでがBEENIE MANのインタビューのPT.2でした。
とりあえず今回もここまでということで。最後のPT.3は、STINGでのボウンティとのクラッシュの話を始め、DAVE KELLY、D' ANGEL、そしてBLACK ROSESのことなどを中心としたインタビューです。(いつの更新になるかわかりませんが。。)

(情報提供:THE STAR)
Text: Ruff-Cutかずみ



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